「合理的配慮」ってずるい?

先日、東備地域自立支援協議会子ども部会主催の「まんまるハート」に参加しました。

今回のテーマが「学校における合理的配慮について」

合理的配慮
ここで詳しい解説は割愛しますが、法律で義務化されましたね。
ただそのことについて知っている、理解している人は指導者も保護者も当事者も、まだまだ少ないと思います。

そこには「障害」というものが、
『個人が抱える疾患』
から
『誰もが参加しやすい社会システムの課題』
という認識に変わってきてるという経緯があります。

例えば、車椅子に乗っている人は障害者です。(極端な例ですが)
なぜなら、車椅子の人でも移動しやすい歩道や店舗、エレベーターの整備ができていない社会があるからです。

障害は個人にあるのではなく、
社会の方にあるというのが今のスタンダードな考え方です。(⇦アップデートしましょう)

(※飯野由里子先生他の『「社会」を扱う新たなモード 障害の社会モデルの使い方」という書籍面白いです。(生活書院))

まず最初に和気町教育委員会の嶋村先生から「合理的配慮とは?」という基本のお話があり、
その後は参加者と支援者(支援学校の先生、自発放課後デイの管理者、相談支援員さんなど)と座談会という形に。

私自身にも特性がある子どもがおり、合理的配慮の部分で言えば学校では十分に配慮してもらえているなと感じています。

例えば、
・感覚過敏があるので制服が着れない、靴下が苦手
 →年中ノー靴下。冬の上着は他のもので代用
・不安が強いときはぬいぐるみなどがあると安心できる
 →お守りとして周囲にも理解してもらい学校にも持って行っている
・ランドセルが苦手(感覚過敏?体が小さいのも)
 →リュックで登校
・音楽など騒がしい教室やうるさい音が苦手(聴覚過敏?)
 →イヤーマフ装着や別室
・宿題、学習進度
 →子どもの学びやすい方法でOK タブレットなどの視覚教材をつかったり

他にもたくさんあります。
書き出してみるとものすごく配慮していただいてる・・・
ほんとに先生方に足を向けて寝られません。。。

ただ、支援者の中でこんな意見が。

「周りの子で『ずるい』って言う子もいて難しいなって」

確かにありますよね。

ただ、私は『ずるい』という言葉が出てしまうということは、その子も今の状況に少なからず不満があるから出てしまうのだと思います。

つまり『ずるい』はニーズを見つける大きなチャンスでもあると思うのです。

例えば、私は自分の足で歩けます。
なので車椅子を使っている人を見て『ずるい』とは思いません。
でも、障害や怪我と診断されるほどではないにしろ「歩くのってしんどいな」といつも思っている人は、
車椅子で移動する人を見て『ずるい』と思ってしまう気持ちが出てくるのではないでしょうか。

先日、支援学級に通う子に、普通級の子が「宿題が少なくてずるい」と言っている場面に遭遇しました。
これはおもしろいなーと思って聞いていたのですが、
まず、立場が対等ですよね。
「支援級の子は頭が悪い、かわいそうな存在」とかっていう偏見を持っていなくて、
(悲しいかな、高学年になるとそんな風に言う子がでてきます。多様性を教えられなかった大人たちの教育の失敗ですね)
単純に友達同士だからこそ出る対等なコミュニケーションだなと思ったのです。

もう一つは先ほどから出てきている『ずるい』の言葉。
言った子は普通級というクラスでひとくくりにされた宿題が出ているので、
ここに合理的配慮はありません。
「普通級に通っている子」だから『普通』にできて当たり前。が前提になっています。
でも、『普通』の人間っていないですよね。
普通級に通っている子どもでも得意不得意はあります。
漢字が苦手、計算が苦手、なんて誰だって当たり前にあるじゃないですか。
きっとここで『ずるい』が出た子は、宿題に対して何かしら不満か困難さを抱えているのではないかと思いました。

ただ、残念ながら日本の学校・教育は効率性を求めるがあまりに30人を先生一人が指導する一斉集団授業。
そこ仕組みの中で個別に配慮した宿題を出すことは不可能なのです。

そして、子ども自身も自分が苦手さや困難さに気が付くことは無理です。
なぜなら「みんなもこのぐらいしんどい思いをしていつも宿題してるんだな」って思っているからです。

その子に合わせた学習や指導、支援。
それが必要がどうかは周りの大人が気が付いてあげることしかできません。

『ずるい』という言葉。
もしかしたらその子なりの「ヘルプ」なのかもしれません。

『合理的配慮』
”障害者”や”みんなとちがう人”のためだけにある法律ではありません。
診断名や病名は分かりやすくするための線引きでしかありません。

大切なのは、
周囲の大人が子供の困難さに気が付き拾い上げてあげること、
困っている子が我慢せず「私、困ってます!」といつでも誰かに助けを求めることができること。

そこに、フツウもフツウジャナイの線引きは必要ないと思っています。